最終更新日:2010/11/01

■筆者紹介
 
菅原照仁
1998年メカニックとしてダカールラリーに初参戦し、翌年からは父・菅原義正の右腕としてナビゲーターを務める。自らもドライバーとしての経験を重ね、2003年ファラオラリーではトラック部門総合優勝、2005年ダカールラリーからは父・義正と共に、親子二代の日野レンジャー2台体制でダカールラリーに挑み続けている。
日本レーシングマネージメント(株) 代表取締役
はじめに

 
地平線の彼方まで広がる壮大な砂丘地帯
「世界一過酷」と称されるパリ・ダカールラリー。広大な砂漠地帯を舞台とし、砂丘やガレ場といった道なき道を2週間以上にわたり駆け巡り、その走行距離は時に1万キロを超える。30年に渡りパリダカで繰り広げられた多種多様のドラマはそのすべてに筋書きなどなく、世界中に配信されるトップチームの歓喜や苦難の裏に隠されたアマチュア選手のエピソードは数え切れないほどだろう。単なる冒険ラリーに留まらず、モータースポーツとしての地位を確立し、F1ドライバーやWRCチャンピオンといった世界最高峰のドライバーでさえ苦戦を強いられる独自の競技形態はいかにして成り立ったのか。
その過酷な競技において、初参戦以来、19年連続完走という結果を残し続けているカミオンの雄・日野レンジャー。(カミオン:フランス語でトラックの意)その輝かしい実績を支えた挑戦の過程を、パリダカそのものの歴史的背景を考察しつつ紐解いてみよう。

パリダカの生い立ちと競技形態確立の10年間

 
09年大会はアフリカ諸国の政情不安の影響を受け、パリダカ史上初めて開催地が南米に移され、パリもダカールも通過しないパリダカとなった。実は03年の第25回大会にも同様のことがあり、パリ・ダカールラリーはこの時、正式名称をダカールラリーに改めた。ここでは混乱を避けるために馴染みの深いパリダカで通させてもらう。

創始者ティエリー・サビーヌ
パリダカの創始者ティエリー・サビーヌ
世界的作家・サン=テグジュペリの開拓スピリットに強い感銘を受けたが故に、ごく自然とアフリカに魅了されたフランスの青年、ティエリー・サビーヌ。当時28歳の彼が1978年の暮れに始めた壮大なサハラ砂漠への挑戦、それがパリダカの起源である。
そもそも自動車レースの起源は1894年にパリ、ルーアン間で開催された「パリ・ルーアンラリー」とされ、都市から都市へ、「CITY TO CITY」が原点である。サビーヌの冒険スピリットが、サン=テグジュペリが自ら開拓し作品化した定期郵便飛行に感化され、「CITY TO CITY」への原点回帰と結びついた形が、パリダカと言えるのではないだろうか。さらに付け加えるならば、サン=テグジュペリが残した「愛とはお互いに向き合うことではなく、お互いに同じ方向を見つめることである」という哲学的思想を、自らがクリエイトするイベントで感じ合い、感じてもらいたいというサビーヌのメッセージが込められている気がしてならない。

未知なる冒険ラリーの幕開け
「レジェンド」の二人。オリオールとライエ
1978年12月26日、サビーヌの呼びかけに賛同し、スタート地点となったパリのトロカデロ広場に集まった参加者は二輪90台、四輪80台、トラック12台の計182台。未知の世界に思いを馳せ、参加者自らが改造を施した様々な車両が、パリから1万キロ離れたダカールへ向け旅立った。サビーヌの「冒険の扉」が開かれた歴史的瞬間である。幾多のトラブルを仲間同士で助け合い、飲食類や不足品を現地で調達しつつ、がむしゃらにダカールを目指した第1回パリ・ダカールラリーは、まさにアマチュアリズムに満ちた冒険旅行であった。右も左もわからない未知の大会で、12台のトラックが参加車両として選ばれたのも、必要であると感じたあらゆる物資を携帯したいという参加者自身の心の表れであろう。
この破天荒なラリーは冒険好きなフランス人の心をくすぐり、年々、参加台数が増加。第3回大会からはFIA(国際自動車連盟)、FIM(国際モーターサイクル連盟)の公認競技となり、モータースポーツとしての形態を確立していく。後年、パリダカの運営に携わるユベール・オリオールやパトリック・ザニロリといった「レジェンド」と呼ばれるパリダカ固有のヒーローたちが、活躍を始めたのもこの時期である。
創生期のパリダカはパリをスタートし、地中海を渡ってアフリカ大陸の玄関口アルジェに上陸し、広大なサハラ砂漠を横断。途中アガデスやガオでの休息日を挟んで、セネガルのダカールがゴールとなるルート設定で、1万キロに及ぶ幾多の難関は、挑戦する者の冒険心と探求心を満たしてきた。しかし、人間の欲望は恐ろしい。多くの困難を乗り越えてきた参加者にとっては、これまでのルートでは飽きたらず、サビーヌは第5回大会で不毛の地・テネレ砂漠横断を試みる。このチャレンジは記録的な砂嵐という悪夢に見舞われ、多くの参加者が遭難し、大混乱に陥る。しかし、選手と主催者の「ダカールへ」という精神は決して折れることはなかった。

サビーヌの死。そして世界的モンスターイベントへ
ポルシェワークスとしてパリダカを制した959
F1、ル・マンで名を馳せたジャッキー・イクスらを擁し、911の4WD版となる3台の959を持ち込んだポルシェワークスの第6回大会への参戦は、パリダカの存在を世界に知らしめただけでなく、冒険色の強いこの競技に、新たに「スピード」という要素を付け加えた。フランスの一青年が始めた砂漠の冒険ラリーは、新たなカテゴリーのモータースポーツイベントとして成長し、翌年の第7回大会で参加台数は500台の大台を超える。
しかし、競技運営も軌道に乗ってきた矢先、86年の第8回大会中に悲劇が起こった。砂漠で競技の陣頭指揮をとっていたサビーヌのヘリコプターが墜落し、帰らぬ人となったのである。1月14日現地時間19時、夕暮れで視界が悪い中での惨事であった。「途方に暮れる」とは、この知らせを聞いて砂漠に残されたものたちの心境であろう。しかし、悲しみに包まれ、うな垂れていたこの集団の顔を、ダカールへ向かせた力が存在した。文字通り、魂の叫びとなったサビーヌの意志である。パリダカは止まらない。サビーヌの意思は不変であり、不滅である。この信念は変わることなく実父・ジルベールらによって継承され、今日までパリダカの精神的主柱として生き続けている。
翌87年の第9回大会には、世界ラリー選手権(WRC)の覇者プジョーが205 T16 GRで参戦。アリ・バタネンらがドライブする2台の205を優勝に導くために、サポートを担う四輪&クイックサポートカミオン、パーツの大量輸送を担当する大型のアシスタンスカミオン、さらに大所帯のエアメカニックというWRC仕込みの物量作戦を展開。初参戦ながら、完璧な戦略のもと優勝を遂げる。後にフェラーリのF1チームを率いるジャン・トッド監督が導いた勝利の方程式は、その後のワークスチームのスタンダードとなる。
そして88年、パリダカは節目となる第10回大会を迎え、参加台数は603台に膨れあがる。パリのヴェルサイユに集結した二輪183台、四輪311台、カミオン109台の一大キャラバンは、パリダカの象徴であり、世界的モンスターイベントとなった証であった。

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